過去の勉強会

※内容を簡単にご紹介します。

1.いろは歌に学ぶ生きる意味
  2.失って初めて、、、
  3.全ての人に共通する思い
  4.豊臣秀吉の臨終
  5.本当の幸せは?苦しみの原因は?
  6.昨日から今日、今日から明日へ
  7.人生の目的は人それぞれ違うもの?
  8.欲についてよくよく考える
  9.人は何の為に生きるのか?
  10.どこに向かって
  11.「自分探し」〜本当の探しものは何ですか?
  12.人生は本当の幸せ探しの旅
  13.残虐事件に学ぶ人間の本性
  14.人の命は地球より重いのは、なぜ?
  15.芥川龍之介の「ただぼんやりとした不安」とは?
  16.生きることを飛行機にたとえたら
  17.働くのは何のため
  18.「私」
  19.有無同然
  20.白骨の御文章
  21.私は何のために生きているのだろうか
  22.どうすれば幸福になれるのか
  23.山のあなた
  24.「四苦八苦」って、、
  25.男心も女心も秋の空
  26.苦境を乗り切る!破綻しない人生経営とは?
  27.キルケゴールの思想 −実存の三段階−
  28.身の垢は手桶の水にてもそそぐべし。心の垢は・・・

いろは歌に学ぶ生きる意味


色は匂えど散りぬるを(いろはにほへとちぬるを)
我が世誰ぞ常ならむ (わかよたれそつねならむ)
有為の奥山今日越えて(うゐのおくやまけふこえて)
浅き夢見じ酔いもせず(あさきゆめみしゑひもせす)

いろは歌に込められたメッセージ(1)

芥川龍之介が「我々の生活に欠くべからざる思想は、 あるいは『いろは短歌』に尽きているかも知れない」と語る「いろは歌」。 最初の「色は匂えど散りぬるを」は、いわゆる「諸行無常」ということについて 語られてます。 諸行無常は「どんなものも常がなく続かない」という意味。 どうでもいいものの「無常」なら大したことありませんが、 大事なものの「無常」には深刻な悲しみが付き物なんですよね。。。

いろは歌に込められたメッセージ(2)

しあわせになりたくてお金とか恋とか名誉を求めるけど、 求めてゲットしたものを失うとき悲しみのどん底に突き落とされる。 しあわせを求めてるのか、悲しみを求めているのか、分からなくなっちゃいます。 こういう現実から目をそらしちゃいけないね、ということで、 道元の「無常を観ずるは菩提心の一なり」という言葉を紹介しました。 ついでに、失恋の切なさを歌ったコブクロの「miss you」をみんなで聴きました。 コブクロ最高♪

いろは歌に込められたメッセージ(3)

加賀百万石の大名に対して 「なんのその、百万石も、笹の露」 と詠んだ小林一茶も、幼くして自分の娘を亡くした悲しみから 「露の世は、露の世ながら、さりながら」 と詠まずにおれなかった。 「この世は無常の世界」と分かっているつもりでも、自分のこととは思えないもんです。 その最たるものが、自分の死ではないでしょうか? 普段は目をそらしがちですが、人間最後は死んでしまう。 なのに、なぜあくせく生きているのか? 「色は匂えど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ」 (満開に咲き誇った桜もやがては散ってしまうように、 この世にいつまでも生きておれる人なんてないんだよ) 忘れている「死」について、「いろは歌」は訴えかけているようです。
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失って初めて、、、

 「失って初めて、その人の大切さに気付いた・・・」なんてよく言いますよね。 もしかしたら人間は、自分の人生で最も大切なことを、人生の終幕にならないと 考えないのかもしれません。  人生で最も大切なこと、それは「人生の目的」だと言われます。  ひとは何のために生まれ、苦しくとも生きねばならないのか?  平凡な生活のまどろみが破られ、愕然とさせられたとき、この問いに真剣な解 答が迫られます。  毎日が慌しく過ぎていき、「今日」という日は二度とはやって来ません。  私たちは忘れています。人生は有限だということ。命には限りがあるということ。 どんな人も、人生という舞台に別れを告げ、死んでいかねばならない日を必ず迎え ます。 それは今晩かもしれないし、明日かもしれない。  人間が生まれてから死ぬまで、大河にポッと生じ、ポッと消えていく泡のよう にあっという間だと言われますが、その短い人生、何のために生まれ、 苦しくとも生きねばならないのでしょうか?  限りある命を燃やし、これ一つ果たさなくてはならない大切な目的があるとすれば、 それは一体何でしょうか?  いよいよ季節は「秋」。 誰もが納得せずにおれないその「答え」を、 古き良き古典の世界に学んでみるのはいかかでしょう?  古きを訪ねて新しきを知る・・・。 耳を傾けるには、よい季節かもしれません。 次回の勉強会もお楽しみに。
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全ての人に共通する思い

  ”この坂をこえたなら幸せが待っている。    そんな言葉を信じて越えた七坂四十路坂” (都はるみ:夫婦坂) これは全ての人に共通する思いなんです。人は目の前の苦しみを 乗り越えることに意味がないと思ったら生きていけないですよね。 頑張った苦労が報われるとしか思えないんですね。 でもどんなに自分がやっていることが無駄なことだと思っていなくても 嫌でも分かる時がくるんです。 人生の目的を知らないでどんなに頑張っても、苦労は報われないことを ドストエフスキーの話を通して話しました。
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豊臣秀吉の臨終

かの豊臣秀吉は臨終に  「露と落ち、露と消えにし我が身かな、   難波のことも夢のまた夢」 と、すべてから見放され、一人さびしく死んでいきました。 日本で一番の成功者と言われる秀吉が満足して死んでないんですよね。 人生面白おかしくやりたいことをやればいいと思う人が多いと思いますが、 私達の人生は必ず墜落する飛行機に乗っているようなものです。 墜落するのは仕方がないと機内で美味しく食事はとれませんね。
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本当の幸せは?苦しみの原因は?

私達は何かイヤなことがあったとき、辛いことがあったとき、 「お金がないからだ」 「気に入らない人がいるからだ」 などと考えます。 でも、それらの苦しみを乗りこえ、たとえお金が手に入っても、 人間関係が良好になっても、その幸せは一時的なものであり、 また別の苦しみがやってきます。 本当の幸せとは、そんな刹那的なものではなく、苦しみの根元を破り、 "人間に生まれてきて本当に良かった"という喜びの心です。
   本当の幸せとは?苦しみの根元とは?
   ということについて話をしました。

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昨日から今日、今日から明日へ

私たちはなぜ生きているのでしょうか。 苦しくともなぜ自殺してはならないのでしょうか。 私たちの人生はよく旅にたとえられます。 旅人が旅にでたら一カ所にとどまっていれないように、 私たちも昨日から今日、今日から明日へと旅をしています。 しかし、旅人ならば、行き先・目的地がはっきりしてます。 では、私たちの生きる目的はなんでしょうか? 答えは本当の幸福になるためです。 では、私たちは幸福を求めて生きていますが、その幸福は本当にみなさんを 幸せにする幸福でしょうか?掘り下げて考えてみました。
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人生の目的は人それぞれ違うもの?

あなたの生きる目的はなんですか? と聞くと、      「僕は会社をつくって社長になることだ」      「私は明るい楽しい家庭を築きたい」      「ノーベル賞をとりたい」とか「歴史に名を残す」 と言う人もあります。 また、 「毎日頑張って生きているのは、週末にパチンコする為だ!」とか、 「風呂上がりの一杯の酒のために生きている!」 と言う人もあります。 しかし、それらは私たちが生きていく為に必要な生き甲斐や 趣味というもので、生きる目的ではありません。 生きる手段なんです。 生き甲斐や趣味は一人一人違うものですが、生きる目的は 全ての人に共通して唯一つのものなんです。 生きる目的を知らずに生きている全人類は、 どこへ向かって飛べばよいか分からない飛行機に乗っているようなもの。 そんな飛行機に乗っている乗客の気持ちは大変不安ですよね。 生き甲斐や趣味は、この不安を誤魔化すためのものなんですね。 生きる目的はこの不安を解決することです。 生きる目的は生き甲斐や趣味とは違うということを話しました。
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欲についてよくよく考える

何かと話題になっている「賞味期限改ざん問題」。 大抵の人は「企業のモラルが劣化したのが原因」と考えますが、 「次から次へと新しいものを欲しがる消費者の欲の深さが、 問題の根っこではないか」という意見があります。 あれも食べたい、これも食べたい、と食べきれないほど買い込み、 冷蔵庫は常に食品で満員御礼。 すると消費者は、賞味期限を当てにするようになり、 賞味期限がブランド化し、企業が賞味期限を改ざんする事態が起きた、というものです。 現代は「飽食時代」とも言われたりしますが、 ただ食べるだけでは飽き足らず、より美味しいもの、より珍しいもの、 より高級なものを、とドンドン食べたがる。 「グルメになった」と言えば聞こえは良いですが、食べ物についての欲は、 昔に比べてグンと深くなったのかもしれません。 これは何も、食べ物だけではないと思います。 物質さえ豊かになれば幸せになれると信じ、 科学技術はひたすら進歩。 ケータイ、Suica、カーナビ、薄型テレビなど、 半世紀前には想像もできなかった商品がちまたに溢れています。 ですが、確かに世の中便利になりましたが、 「あぁ、幸せだ」という実感が湧かないのはなぜでしょう?? 欲しいものを次から次へと獲得していますが、際限なくひろがる欲望に、 どこまで走っても満たされず、渇していると言えます。 果たして人間は「欲を満たす」ことで幸せになれるのか。 「よくよく」考えてみなければなりません。。。 ↑まさかの低レベル↑ ( ̄■ ̄;)
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人は何の為に生きるのか?

古代ギリシャの時代から、絶えず人間に対し問い続けられてきた問題です。 不条理の哲学で有名なフランスのアルベール・カミュは、 「人間の奥底には、生きる意味を死に物狂いで知りたがる願望が、 激しく鳴り響いている」 と言っています。 どうしても生きる目的が知りたい、 いや知らなかったら生きてゆけないのが人間なのです。 「なぜ生きる」「人生の目的」は、 「全ての人にとって最も大切な問題である」ことを、 ノルウェーの作家ヨースタイン・ゴルデル、ロシアの文豪トルストイ、 日本の奇才ビートたけしの言葉を紹介しながら、話をしました。
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どこにむかって

◆人はなぜ生きるのか。     いつかは知らないけれども、人が存在したときから問われ また、今からも人が存在する限り問われ続ける問題だと言われ ています。そんな壮大なテーマを取り扱っているから、 サークル名は「ラメール(lamer)=海」といいます。   この世にオギャッと生まれたのは、例えれば、太平洋の真ん中に 放り出されたようなもの。見えるのは水と空だけとしたら、 どうしますか?  泳がねば沈んでしまいますから、泳ぎますが、 では、どこへ向かってでしょうか。島も陸もない。船も見えないのに。 やみくもに泳げば泳ぐほど、陸地や船の方角と反対に進み、 努力が無駄になることもあります。  泳ぐ前に、まず、ハッキリさせるべきなのは、 島がどこにあるのか。陸地はどこか。船のある方角です。そこ へ向かって泳いでこそ、泳ぐことに意味があり、 「ここまで泳いできてよかった」 と、泳いだ苦労が報われる時が来るのです。  生きる時に一番の大事は、どこへ向かって生きるのか、 「人生の目的」です。  その人生の目的について、美文で有名な古典『歎異抄』を通して 話をしました。
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「自分探し」〜本当の探しものは何ですか?

「食べて寝て起きて」の繰り返し。 「こんな毎日に一体どんな意味があるのか」 自分の人生に意味や価値が感じられず、答を求めて旅に出ているの でしょう。 団塊の世代の人達も自分の「存在価値」を支えていたものが、 次々と崩壊しています。 命と燃えた職場も、定年によって去らねばなりません。 退職後支えてくれると思っていた妻にも裏切られ、子供も自分を 必要としていない。 職場以外に自分という存在を認識できなかった人達は、退職を前に 自らの「存在意義」が急速に透明化していくのを感じます。 私達が生きる意味を感じる時は他人の必要とされ、大事にされている時です。 しかし、地位や名誉、肩書きを力にしている者は、それらを失った時に倒れ、 人を力にしている人はその人が倒れたら、倒れます。 信念も長く続くものではありません。 ニーチェは「人間は生を見ることが深ければ深いほど、 苦悩を見ることが深くなる」と言いました。 人生に、本当に求めるに値するものがあるのか、 考えれば考えるほど一切は無意味に思えてくるからでしょう。 キラキラ輝く自分でありたい。 どこかに心から満足できる人生はないのか。 「生まれてきてよかった」と大満足できる人生の目的こそ、 すべての人が本当に探し求めているものなのです。
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人生は本当の幸せ探しの旅

人生は、本当の幸せを探しての旅です。しかし私たちが知っている幸せは ニセの幸せなんです。 私たちが幸せだと感じるのは、自分に今ないものを手に入れた時です。 例えば、健康やお金や結婚や大学合格など。 幸福とはこれらを手に入れて、安心・満足した状態をいいます。 しかし、諸行無常といわれます。 諸行とは「すべてのもの」無常とは「つづかない、裏切る」ということです。  健康になって喜んでいても、いつまでも健康ではありません。 いつ病気になるか分かりません。 お金もすぐになくなってしまいます。 結婚した花嫁が怖いほど幸せと言っているのも、 やがて幸せが壊れることを予感しているんですね。  私たちは幸福になっても、その幸福がいつか必ず崩れてしまうという不安が 常につきまとっています。  また私たちの心も無常です。何かを手に入れて喜んでいても、 それがすぐに当たり前になり、不足が出てきて不満に変わります。 諸行は無常なので、私たちの知っている幸福には不安と不満があり、 本当の安心や満足は得られないんですね。 本当の幸せとは何でしょうか。 それをよくよく知らなければいけません。
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残虐事件に学ぶ人間の本性

平成19年12月、渋谷・新宿でバラバラ殺人事件が発生。 殺されたのは外資系金融会社の社員で、犯人はその奥さん。。。 ワインボトルで撲殺したあと、遺体をバラバラにして捨てたらしい。 皆さん、この事件を聞いた時どう思われましたか?? 「よく、そんな酷いことできるなぁ」 「考えられないこと」 「人間のやることか」と。 しかし、この奥さんがなぜこのような凶行に及んだのか。 そこには聞くに堪えないDV(家庭内暴力)があった、と言われます。 日常的に暴力を振るわれ、 ベルトで手首を縛られガムテープで口をふさがれたり、 化粧をしていると浮気を疑われ、 体のにおいを嗅いで確認されたり、 キャッシュカードを折り曲げられライターで溶かされたり、 鼻骨骨折するほど顔面を殴られたり、 ・・・ どうでしょう?もし自分が同じ立場だったら、 同じことをしてしまうかも知れません。 考えてみると、私たち、ちょっと気に食わないことや都合が悪いことがあると、 「あいつ、ムカつく」 「いっそ殺してやろうか」 「この世から消してしまいたい」 というような心が平気で出てきます。 そんな人には言えない恐ろしい心を抱えている私たちだから、 理性も吹き飛んでしまうような(例えば上記のような)状況に置かれると、 途端に鬼の所業をしてしまうのではないでしょうか? そういう意味で、日々報道される残虐非道の事件は、 「縁さえくればどんな恐ろしいことも仕出かすアナタだよ」 と教えてくれているのかも知れません。
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人の命は地球より重いのは、なぜ?

先月、教育ボランティア先の小学校の卒業式にスタッフとして 参加してきました。 やっぱり卒業式は特別なものです。卒業生の名前を呼ぶ担任の先生、 最後は涙声になっていました。 思い出に残るとても素敵な卒業式でした。 ところが数日後、ある小学校で卒業生の6年生の男の子が、 卒業式の直後に自宅のマンションから飛び降り自殺をするという痛ましい事件が 起きました。 男の子は卒業式の門出の言葉で 「大好きな学校」というセリフを「大嫌いな学校」 と言い換えて周囲を驚かせました。 「緊張して間違えた」と言ったそうですが、 「死んで詫びる」という遺書と見られるメモを残して自殺しました。 その子は出席も成績も良好で、問題行動など一切見られなかったそうです。 そんな子がどうして?疑問は深まります。 しかし、これは決して他人事ではありません。 「命は大切だ」「人の命は地球より重い」と言われますが、 「なぜ?」と聞かれて私達はどんな答えを用意しているでしょうか? 私たちもこれからの人生「もう生きるのには疲れたよ・・・」と絶望するほど、 重大な苦難、トラブル、失敗にぶち当たるかもしれません。 そんな時、この男の子を「そんなことで自殺するなんて・・・」 と思っている私達も、簡単に自らの命を捨ててしまわない保証が どこにあるでしょうか? ギリギリ一杯その時に、「私はこの目的果たすために生まれてきた。 この目的果たすために生きている。 この目的はたすまでは絶対に死ねない!!」 とその逆境を乗り越えることができるでしょうか? そもそも人間にはその尊い命の炎を燃やして、 これ一つ果たさなくてはならない大切な目的などあるのでしょうか? 「ある。それは摂取不捨の利益をうることだ」 鎌倉時代の有名な古典「教行信証」には、 その全ての人にとって最も大切な「人生の目的」の答えが ハッキリと書かれていると言われます。 ぜひ一度、勉強会にご参加ください。
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芥川龍之介の「ただぼんやりとした不安」とは?

 これだけ経済が繁栄し、物質的に豊かになった日本で、子供 から大人まで、毎年3万人以上の自殺者がいます。  生きるということは大変なことなんですよね。  昭和2年、あふれるほどの才能をもった芥川龍之介が35歳 の若さで自殺をしました。  自殺の動機を「自分の将来に対する、ただぼんやりとした不 安」と遺書に書いていました。 人生をまじめに考えますと、芥川龍之介だけでなく、私たち も、何を手に入れても、何をしても、なぜか満たされない、ど こか不安で、何かじっとしておれない気持ちを抱えて生きてい ます。  この言いようのない不安はどこからくるのか。「ぼんやりと した不安」と芥川龍之介が言っているように、よく分からない んですが、突き詰めていくと”死”にいきつきます。生きると いうことは、私たちにとって一番嫌な死に向かっての行進です 。しかもいつ死ぬか分かりません。生と死は常に隣りあわせな んですね。  この死への不安があるから、今何をしても心から喜べないん です。  本当の幸せになるには、考えたくないことですけど、死の問 題を避けていてはいけないということを話をしました。
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生きることを飛行機にたとえたら

すべての人は幸福を求めて生きています。 しかし、科学が発達しても政治が整っても自殺者は減るどころか 増える一方です。 なぜ、幸せ求めているのに幸せになれずにいるのか、多くの人が 見えていない盲点は何なのか…… 生きることは飛ぶことに譬えられます、生まれてきた時が飛行機 が飛び立った時。 小学、中学、高校と順調に飛行を続け、今は水平飛行に入ってい ます。 ところが、飛行機はいつまでも飛び続けることはできません、そ れは燃料に限りがあるからです。 命という燃料が切れてやがて必ず墜ちていかなければならないの です。 ですが、いよいよ墜ちていかねばならないとなったら、どうでし ょう。 どんな食事も美味しくないし、コメディー映画も面白くなってし まいます。 快適な旅どころでない不安に怯え、泣き叫ぶ人達ばかりでしょう。 未来が暗いと現在が暗くなる。 真っ暗な未来をかかえたまま、明るい現在を築こうとしてもでき る道理がありません。 確実な未来を誤魔化していても、死から逃れることはできない、 誤魔化しきれないのが現実です。 中国の故事成語に「居安思危」とあるように、まだ健康で、元気 な時に未来にやってくる危うげなもの、目を覆いたくなるような ものを見据えて解決してこそ、心から充実した人生にできるので す。
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働くのは何のため

はたらくということは、”はた”を”らく”にするということで、 皆が幸せに生きていくために、一生懸命はたらいているのに、 全然”はた”は”らく”になるどころか、自殺者は増えています。    一生懸命はたらけば、いつかは幸せになれる、 救済されるというのが日本人の心にありますが、 頑張っても苦労しても報われない、 また仕事で成功しても、得られたものはこれだけか、 とむなしさを感じている人も多いそうです。    それは、はたらくことの意味が曖昧になっているからなんです。 はたらくのは衣食住をそろえて、生きていくためです。 しかし、「生きて何をするのか」という人生の目的が曖昧であったり、 知らなくては、生きる意味もないし、働く意味もなくなってしまいます。    生きる目的がはっきしてこそ、 「この目的果たすために頑張るのだ」 と生きる力がわいてくるんですね。 労働の一番の栄養剤は、生きる目的を知ることなんですね!
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「私」

「私」とはどういうものでしょうか。 「私」が幸せになるために、「私」を知ることはとても重要です。 「私のことは、私が一番知っている」と皆さん思われるでしょう。 ところが、  知るとのみ 思いながらに 何よりも   知られぬものは 己なりけり と言われるように、分かっているようで、 一番分かっていないものが、実は、「私」自身のことなのです。 他人が知らない、自分でも気付いていない、本当の「私」とは、 どういうものか、仏典の言葉を通して、話をしました。
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有無同然

人は皆、幸せを求めて生きております。 学生が一生懸命勉強するのも、サラリーマンが頑張って働くのも幸せを 求めてのことです。 しかし、私達が欲しいものを手に入れ望んでいる地位についても、 今度はそれが、重荷になります。 いい役職を目指して、出世をすると、多くの仕事がやってきて、 責任に押しつぶされてしまう… 多くの友達に囲まれ、人付き合いがうまい人はいいな〜と羨望の眼差しで 見られている人も、八方美人で本当の自分が出せずに疲れてしまう。 金や財産、地位や名誉、友人、恋人が無ければ無いことで苦しみ、 それらを求めます。 しかし、有れば有ったでまた有ることが心配や不安の種になるから、 有っても満たされずにいるのは一緒なのだと言われます。 これを有無同然と言います。 私達が本当の幸せになるには、苦しみの真因を正しく知らなければならないと 言えましょう。
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白骨の御文章

8月と言えば、お盆、法事の季節。 亡き親類縁者を偲ぶとき、「もうあの人とは会えないのだな」とい う哀しみの涙にむせぶと同時に、自分の生き様についてしんみり考 えてしまうのは、オイラだけではないと思います。 そんな法事のときによく読まれるものに「白骨の御文章」と言われる古典があります。 作者は室町時代の蓮如上人。 切々と命の無常を訴えかける内容に加え、流れるような名分であり、 02年に出版された『声に出して読みたい日本語2』なんかにも紹介されてました。 出だしからガツン!ときます。 「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそ儚きものは この世の始中終、幻の如くなる一期なり。」 すべての人間の生き様を「海の水面に漂う浮草のようだ(=浮生)」 と断じ、夢幻のように過ぎ去るのが人生ではないかとのご指摘。 う〜ん・・・、まことその通り。。。m(_ _)m 500年前も、平成の今日も変わらぬ真実に、 みんなで耳を傾けたのでありました。。。
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私は何のために生きているのだろうか

「私は何のために生きているのだろうか」 これは1リットルの涙の中で木藤亜也がお母さんあてたメッセージです。 中学生の時、脊髄小脳変性症という病気が発症し、 全身の筋肉がだんだんと動かなくなっていきました。 車いすから病院のベッドのでの生活になり、 自由に行動することができなくなります。 そんな彼女が震える手をなんとか動し、 30分かけて母さんに書いたメッセージです。 もう好きなこともできないし、死を待つだけの人生。 「必ず死ぬのになぜ生きる」 平凡な生活のまどろみが破られ、愕然とさせられた時、 この問いに真剣な解答が迫られます。 本当の人生の目的が分からなければ、 木藤亜矢さんに答えを出してあげることはできないのではないでしょうか。

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どうすれば幸福になれるのか

「どうすれば幸福になれるのか」 私たちは幸福になるために日々頑張っています。 また私たちを幸福にするために政治や経済や科学や医学は進歩してきました。 お金があれば幸せになれると思っている人もあれば、 仕事で成功すれば幸せになれるだろう、 あの人と結婚できれば幸せになれるだろうと思って頑張っている人もあります。 求めているものは人それぞれ違いますが、 一言で言えば 幸福を求めて全ての人は『一生懸命』生きています。 幸せになろうと皆努力し人を幸せにするために科学も医学も進歩してきましたが、 私たちは幸せだと思っているでしょうか。 自殺者は増えこそすれ減っていません。 その中には人も羨むようなお金を持っている人や、 能力・才能に恵まれている人もあります。 幸せになるために皆努力しているのに幸せになれないでいる。 これは、どうしたら幸せになれるのかを知らないからなんです。 いわゆる幸福や不幸という運命は何によって作られるのか、 何によって決まるのか、運命の仕組みについてみんな知らないからなんです。 どうしたら幸福になれるのか、全ての人が一番知りたい、 知らねばならない運命の仕組みについて、 大宇宙の真理と言われます因果の道理によって話をしました。
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山のあなた

「山のあなた」 「山のあなたの空遠く、幸い住むと人のいふ。  ああ、われ人と尋めゆきて、涙さしぐみかへりきぬ。  山のあなたになほ遠く、幸い住むと人のいふ。」 学校の教科書に載っていたり、桂枝雀の落語でもお馴染みの、 ドイツの詩人カール=ブッセの詩です。 だいたいの意味は以下の通り。 “山の遥か彼方に『幸せ』があるそうで、  私は仲間と共に探しに行ったけど、  結局は見つからなかった。  山の彼方のそのまた向こうには、『幸せ』があるらしい。。。” あの大学にさえ合格できれば、 英会話をマスターできれば、 今度のスポーツ大会で優勝できれば、 素敵な恋人をゲットできれば、 安定した職に就けば、 マイホームを手に入れれば、 金持ちにさえなれば、 ノーベル賞を取れれば、 きっと「幸せ」になれると信じて山を越えますが、 そこに「幸せ」は無い。 一体、どこにホントの幸せがあるのでしょうか。。。
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「四苦八苦」って、、

人生の目的なんか考えなくたって、それなりに楽しく生きていけるよ という意見を聞けばうなずく人も多いと思います。 ですが、 どんな国の人も、男性も女性も、お金持ちも貧乏な人も 避けることができない苦しみがあると言われます。 それを四苦八苦と言いますが、元は仏教からきているそうです。 生苦・老苦・病苦・死苦の四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四つを 加えて四苦八苦です。 生苦は生きる苦しみ。 朝早く起きて眠たい中、会社に行き、家に帰ってくれば 炊事や洗濯などもしなければなりません。 人の責任を押し付けられたり、人間関係のストレスなどやりきれないことが 多い人生を太宰治は次のように言っています。 「生きている事。生きている事。    ああ、それは、何というやりきれない        息もたえだえの大事業であろうか。」 老苦は老いの苦しみです。 どんなに健康で若い人も老いを避けることはできません。 病苦は病いの苦しみです。 人間は病の器と言われ、7000以上の病名があります。 ガンの末期などは、健康な人には想像も及ばないほどの苦しみですが、 私たちの未来の姿です。 愛別離苦は愛している人、大事なものと別れねばならない苦しみ。 怨憎会苦は嫌いな人、嫌なことと会わねばならない苦しみ。 求不得苦は求めているものが求まらない苦しみ。 五陰盛苦は肉体が盛んであるが故に苦しむということです。 私たちにとって最大の苦しみは死苦です。 病気のときは妻や子供が介抱してくれますが、 死んで行く時は誰一人ついてはきてくれないのです。 必死にかきあつめた、お金も財産も地位も名誉も全て置いて、 たった独りで死んでいかなければなりません。 この一大事を解決しなければ、どれだけ科学が発達しても、 経済が豊かになっても本当の幸せにはなれません。 
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男心も女心も秋の空

@「男心と秋の空」 A「女心と秋の空」 僕はAしか聞いたことなかったんですが(オイラが男だから?)、 諺としてのメインは@らしい。。。 言われ始めたのは江戸時代。 女性に対する愛情が変わりやすい男心を言われたもので、 若い娘さんに男性を警戒するよう忠告するのにも使われるとのこと!(^-^;) 対するAはあくまで@をもじったもので、 使われだしたのは女性の地位が向上し始めた大正のころ。 しかも、愛情に限らず物事全般に対して移り気で、 なおかつ喜怒哀楽の感情の浮き沈みが激しいさまを言われたものなので、 @とAはニュアンスからして違うみたい。 いずれにしても、男心も女心も「心コロコロ」で、 変わり通しなのが実態ではないでしょうか?? デートも、 新しく始めた趣味も、 回数を重ねるにつれ興奮が味わえなくなるし、 買い換えたケータイも車もパソコンも、 使ってるうちに充実感は薄れ、やがて不足が出てくる。 もっと高機能のケータイが欲しい、 もっと珍しいスイーツが食べたい、 もっといい女を・・・っとっと(汗) パソコンの次はテレビ、 車は買ったから今度はマンションを。。。 あれもこれもと際限なく広がる欲の塊で、 常に変わり通しなのが私たちの心だと言えます。 そんな「変わり通し」の心のままで、 「変わらない幸せ」になれるとしたら。。。 すごいと思いませんか?   月は降らずして水に浮かび、水は昇らずして月を宿す。   月は月にして水に宿り、水は水にして月を宿す。
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苦境を乗り切る!破綻しない人生経営とは?

「或者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、 説経などして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、 教のまゝに、説経師にならんために、先づ、馬に乗り習ひけり。 輿・車は持たぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、 桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、仏事の後、酒など勧むる 事あらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、 早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、 いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説経習うべき隙なくて、 年寄りにけり。 」 有名な『徒然草』の第188段冒頭です。 ざっくりの意味は以下の通り。 ある人が、「お前は、仏教の学問をして、説教師になりなさい」と 子供に言った。 素直に従った彼は、まず、馬の乗り方を習い始めた。 「法事のときに、馬で迎えに来られたらどうしよう。 まともに馬に乗れなかったら恥ずかしいではないか。落馬したら大変だ」と 思ったからである。 さらに、歌の稽古にも励んだ。 「法事のあとで、お酒が出るだろう。何も芸ができなかったら、 招待してくれた人が興ざめするに違いない」と、 彼なりに考えた結果であった。 乗馬と歌は、次第に上手くなっていった。 上達すればするほど、面白くなってくる。 しかし、本来の目的であった仏法を学ぶ時間が無いまま、年をとり、 大いに後悔したのであった。。。 吉田兼好が指摘するように、本来の目的を見失い、 目先の些細なことに心を奪われがちなのが私たちではないでしょうか? では、どんな心がけが必要なのか?? このエピソードの続きには 「まず、生涯に果たすべきことの中で一番大切なものは何か、 よく考え、ハッキリさせることだ。それ以外のことは思い切って断念し、 最優先すべき目的に向かって努力すべきである」 とあり、以下のように締めくくられています。 「一事を必ず成さんと思はば、  他の事の破るゝをも傷むべからず、  人の嘲りをも恥づべからず。  万事に換へずしては、一の大事成るべからず。」 (最優先すべき目的を果たそうと思うのなら、  たとえ他のことが上手くいかなくてもくよくよしてはならない、  人からバカにされても気にするな。  全てを犠牲にしなくては、目的を果たすことはできないのだ。) 小泉元総理もお気に入りの言葉だそうですが、 凄まじいマインドだと思います。 「生きる」というのは「人生」という名の会社を経営しているようなもの。 だから、「何をやるか」「何をやらないか」という戦略を的確に練る必要があります。 そのためには、  「目指すべきゴールはどこか」  「結局、どうなりたいのか」  「究極的な目的は何なのか」 を見失ってはならないということを、この『徒然草』から学びました〜。
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キルケゴールの思想 −実存の三段階−

セーレン=キルケゴール。 実存主義哲学の創始者と言われる18〜19世紀のデンマークの 哲学者です。「実存主義」というのは、簡単に言うと、人間はいかに生きる べきか、何をなすべきか、を追求する哲学。 彼の手記に 「私にとって真理であるような真理を発見し、 私がそれをするために生き、それのために死にたいと思うような 真理を発見することが必要なのだ。」 とあるように、「我、何をなすべきか」を追求していきました。 キルケゴールは、人間の真の生き方に到達する道を、 三段階に分けて考えます。 「実存の三段階」と言われるものです。

美的実存

一つ目は「美的実存」この段階では、自分のあるがままに快楽を求め、欲望を満たそうと します。実存の意義や「私は何のために生きているの?」なんて ことには悩まず「今さえ楽しければいい。そりゃあ、いつかは死ぬ だろうが、それまでやりたいことを思いっきりやるだけだ」という生き方です。 しかし、快楽の果てに人間を待っているのは倦怠であり退屈であり、 むなしさです。 健康も美も移ろいやすく、いつまでも続くものではありません。 そんな有限な存在である人間が、無限の欲望を満たすのは不可能。 美的実存は、それ自体に含まれる矛盾のゆえに挫折し、絶望に至る と彼は言います。

倫理的実存

快楽では真の幸福は得られぬと気づいた人は「倫理的実存」の 段階へ。良心に目覚め、欲望を抑え、倫理的に生きようとする。 つまり、他人とともに生きることを願い、強い意志をもって 道徳的善に励もうとする生き方です。 しかし、欲望を抑え、全力で人のために尽くそうとすればするほど、 自分のことしか考えていない自分、 そして「私はこんなに頑張っているのに、お前らは何だ」という 傲慢さが知らされる。 倫理的実存を追求しても、やがて挫折し、絶望へと至ります。 ○では、どうすればいいのか? 人間を超越した絶対者の力によるしかない、と彼は考えました。

宗教的実存

第3の「宗教的実存」と言われる段階です。 しかし、有限で相対的なものしか分からない人間の内側を探しても、 無限の絶対者は存在しない。 だから救済は信仰の決定的飛躍によってのみ得られると確信します。 西欧で生まれ育ったキルケゴールにとって、 「信仰」とは、キリスト教でした。 聖書の記述を疑わないように努力し、例え話や冗談として扱わず、 まともに受け止めようとします。 比喩や象徴的に解釈する周囲の者を容赦なく非難し、 腐敗した教会へも妥協を許さぬ攻撃を加え、 自身は熱烈に「信仰」を探し求めていきます。 ところが、彼は最後までキリスト教を信じ切ることはできません でした。 「ルターは95の命題を掲げた。私はただ一つだけだ。 キリスト教はどこにもない」 と言い残して亡くなっています。 人間の真の生きる道、 そのために生き、そのために死にたいと思える真理、 つまり「人生の目的」を熱烈に求めたキルケゴールでしたが、 最期まで知ることは出来なかった。。。 「なぜ生きる」という問いかけが、 いかに重たい問いかということが知らされます。
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身の垢は手桶の水にてもそそぐべし。心の垢は・・・

「身の垢は手桶の水にてもそそぐべし。心の垢はそそぐに由なし」 剣聖・宮本武蔵の自伝の言葉です。 孫子の兵法に「敵を知り己れを知らば、百戦して危うからず」とあるように、 60回以上の真剣勝負で一度も負けなかった宮本武蔵はよほど深く自己の姿を 見つめていたに違いありません。 そんな武蔵の言葉です。 「垢」とは汚いもののこと。 「身の垢」ならお風呂に入って身体を洗えばそそぐことができますが、 「心の垢」はどうでしょう? よく考えると朝から晩まで どうでもいいことに欲を起こして どうでもいいことにイライラして どうでもいいことを嫉んだりして 心をやつしています。 「身の垢」以上に「心の垢」で汚れた日常を送っているのが私たちでは ないでしょうか? 出来ることなら「身の垢」と同じように「心の垢」も洗い流したい ところですが、武蔵は 「心の垢はそそぐに由なし」 心の垢を洗い流す術はない、とキッパリ告白しています。 欲しがるまいと思いながらも心の中で手を出し、 腹を立てまいと思いながらも気付けばムカムカし、 嫉むまいと力んでも他人の幸せを苦々しく思う心は止まらない。 滝に打たれようが、写経しようが、四国のお遍路さんを何千回廻ろうが、 神の前で懺悔しようが、ヨガで呼吸を整えようが、滝のように汗を流そうが、 「心の垢」を微塵も無くすことはできないということです。 「汝自身を知れ」を座右の銘にしたのはソクラテスでしたが、 武蔵が指摘しているような人間の姿を知ることが 人生の勝利者になるための第一歩なのかも知れません。
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